顧想園について
歴史
柳窪
東久留米市の西端に位置する柳窪は、奥多摩から流れてきた多摩川の流れの一部が、青梅の辺りから伏流水となり、それが再び黒目川として地上に湧き出るところに形成された集落です。江戸時代中期以降、関東西北部から移動してきた農民たちにより開墾され、扇状地という地形の制約から畑作を主体とした村落が成立しました。
都心から20㎞余りに位置する柳窪の周囲には、昭和30年代以降、宅地化、都市化の波が押し寄せますが、当地はそれに積極的に抗います。その結果、雑木林や屋敷林、畑地のなかをせせらぎが流れ、茅葺や瓦葺の古民家、白壁の土蔵が点在するという、かつての武蔵野台地に広くみられたであろう風景、国木田独歩の「武蔵野」に描写されているような光景を今に残すことができました。
顧想園
上述の農民のなかに村野を名乗る一族がいました。その村野の分家の一つが何代にもわたり少しずつ建て増してきた家屋や蔵など計7件が、2011年に「村野家住宅」として国の「登録有形文化財」に登録されたことを機に、その敷地と建物群の総称として、同小説の一節から引用し、顧想園という呼称を用いることにいたしました。
緑の景観を残すために
柳窪地域も1955(昭和30)年頃から田畑から住宅への転用が増加し、1970(昭和45)年には、柳窪を含む東久留米市全域が市街化区域となりました。
危機感を覚えた柳窪の地元有志たちは、都市計画法に基づく「市街化調整区域」への指定(いわゆる「逆線引き」)を行政へ申請し、1990(平成2)年に、約12.2ヘクタールが同区域としての編入が認められ、新たな開発や建替が制限されることとなりました。
さらに1995(平成7)年には、その一部と隣接する雑木林が「柳窪緑地保全地域」に指定され、屋敷林を中心とする柳窪の景観は、これら2つの制度によって守られていくこととなりました。